日々の外国語

外国語の勉強をしていて思ったことを投稿していきます。(英語、ハンガリー語、スペイン語、ポーランド語)

ネイティブ信仰と人種

このカテゴリーでは、英語について、仕事や日々の生活の中で気づいたことや面白いと感じたことを記事にしていきたい。

 

昨今、ネイティブスピーカー信仰が根強い。自身の持つ認識と広告に流されることで生まれる闇がそこら中にあふれている。(「英語のネイティブ」については別の記事で考察したい。今回は雑に定義させてもらいたい。)

 

世間の考えるネイティブは「アメリカ人」「イギリス人」(もう少し考えて「カナダ人」「オーストラリア人」)というのが多いだろう。つまり、簡単に言うと、ネイティブ信仰というのは、英語教育において「英語のネイティブスピーカーであるアメリカ・イギリス人から習うのが一番(それ以外の英語学習は無駄)」というようなものだ。それ自体は一つの学習法としていいと思う。しかし、それ以外の英語教育の要素をバッサリと切り捨ててしまうのだから、あまりにも極端である。

とりあえず「ネイティブから習え」ばいいのか。そんなわけはない。この信仰によって作り上げられたものの一つが巷の「英会話教室」である。英会話教室自体を否定する意図はもちろんない。うまく利用することで素晴らしいものになるだろう。そしてもちろん、英会話教室は一つの例に過ぎない。ただ、ここで言いたいのは、ネイティブでありさえすれば他はもう何でもよい、といったような人が散見される、ということだ。大人になって基礎的な文法も何もままならない状態で、ただ英語のネイティブとなんとなく会話した気になって終わるレッスンを繰り返して、結局上達せずやめてしまう。ネイティブというものだけを売りにしてビジネスパーソンたちをターゲットにした英会話教室の広告群。

これらは全部「ネイティブ信仰」からくるもののように思える。そして、この「ネイティブ信仰」には人種の問題も複雑に関係している。今であれば、コケイジャンかアフリカ系(俗にいう白人、黒人)であれば「英語のネイティブ」かどうかは関係なく、ネイティブ講師として英会話教室で雇われている。働いている人を批判するつもりはまったくない。日本で頑張って働いていただいている方々にはいつも感謝の気持ちでいっぱいだ。しかし、アジア系の先生は少ない、あるいは採用されづらい。これはまさに人種の問題を含んでいるからである。教育の資格も英語の実力も遥かに高いフィリピン人の方々が、それと比べて何もない他の人種の方々よりも採用されにくいという話を聞いたことがある。また、白人、黒人の講師の方が生徒やその親からの人気が高い傾向にあるそうだ。※もう一度言う。人種に関係なく、母語かどうかに関係なく、良い先生はいる。

ここから分かる問題は、世間の一部の方々の認識だ。そういった広告群はその認識を利用しているだけにすぎない(もはやその認識を作り出している、とも言えなくはない。鶏が先か、卵が先か)。黒人、白人であれば「ネイティブ」なのである(その認識の中では、「ネイティブ」と言ったら「英語」のみの世界観をお持ちの方々も多い。よって「ネイティブ」といえば自動的に「英語のネイティブ」ということになる)。仮に英語のネイティブだったとしても、その範囲は幅広く多様だ。中卒かもしれないし、弁護士として働いていたかもしれないし、軍人だったかもしれない。

そして、ただなんとなく月2回通って話していれば、英語に関するすべてのスキルがすぐに飛躍的に上がる、ということは絶対にない。

それらの広告に流されてしまうのは、「学校の英語」以外の方法を知らないから、という理由もあるかもしれない。英語ができるようになりたいと思ったときに思う浮かぶ方法が、苦い思い出の「学校の英語」と自身の信仰に沿う「ネイティブスピーカーとの会話」の2択なら後者に流れるのもわからなくはない。これから採用する勉強法について客観的になるために、自身で勉強の仕方を考えるのはとても大事だ。また、取り組み方について「ただ流される」のと「思い込みをとりあえず捨てて試しにやってみる」のとでは大きく違う。少し話が逸れた。

すでに述べたように、問題は英会話教室だけではないが、わかりやすい形で表れているので今回は取り上げた。ネイティブ信仰と人種問題は、その他の様々な分野で見え隠れする。広告にあるような「グローバルな人材」や「国際人」になりたかったら、まずは自身の持つこういった観念や認識と向き合うことも大事だ。

 

私自身も至らない部分が多いので、自問自答し続けていきたい。